日光例幣使道の由来
「例幣使」とは、朝廷がつかわした、伊勢神宮の神前に捧げ物をもっていく使者のことである。江戸時代朝廷は、徳川家康の法要のため日光東照宮にも同じように勅使を派遣した。恒例となったこの派遣のため、京から中山道を通り、倉賀野宿より日光に至るまでの道を整備した。復路は日光道から江戸に入り、東海道を使って帰京した。春の東照宮例祭に合わせ、勅使が通る道のことを「日光例幣使道」とよんだ。
伊勢崎を通るかつての例幣使道は、現在の市南部を通る県道142号線(旧国道354号線)と多くの部分で重なっていて、市内には現在でも、往時を偲ばせる名所が点在している。
なお、例幣使は京を4月1日に出発、15日に日光に到着した。1647年から1867年の221年間、一度も中断することがなかった。
柴宿本陣跡
伊勢崎市柴町524
柴宿本陣は、倉賀野から日光に向かう13宿の中で、第3番目の宿場。玉村宿で一泊した例幣使一行が利根川を渡り、ここで休憩した。当時を偲ばせる黒松と門が再生された石積みの水路の脇に立っている。
右赤城
例幣使道は左手に赤城山を見ながら、西から東に進む。柴宿を発ち、馬見塚を通って、下蓮の手前、豊東橋の南詰め付近で右に曲がり、山を背にしながら南に向かう途中で、道の向きが少し西に変わる。この場所からは、ずっと左手に見えていた赤城山が右手に見える。ここが、街道の名所。
例幣使道沿いには、多くの伝説や言い伝えが
今もなお、人々の心に息づいている。
夜泣き地蔵
戸谷塚町にある観音寺境内には「夜泣き地蔵」といわれる天明三(1783)年の浅間大噴火の供養塔が建っている。天明の浅間大噴火で被害を被った人々の遺体が、利根川の川岸に打ち上げられた。気の毒に思った戸谷塚の村人が埋葬したが、夜な夜な墓から泣き声が聞こえてくるので、成仏してもらおうと翌年に地蔵様を建立したところ、泣き声はしなくなったという。それからというもの、地蔵の赤いおかけを借りて泣き癖のある赤ん坊につけると泣き癖が治るといわれている。
三ツ橋伝説
昔、馬見塚町には小川が3本流れ、それぞれに石橋が架かっている場所があった。建仁二(1202)年の春、世良田長楽寺を開山した、栄朝禅師が牛に乗って「三ツ橋」に通りかかると、橋の下でハシカに苦しむ幼い子どもを抱えていた夫婦に出会った。禅師は、牛の背を打つために持っていた松の小枝を、子どもの顔にかざして経文を唱えた。すると、みるみる熱が下がり子どもは救われた。それから、子どもがハシカにかかったら、橋の下をくぐると早く治る、あるいは橋の下をくぐってハシカをいやす風習が続いた。「例幣使の籠の下をくぐると病気にかからない。」といわれるようになったのも、この三ツ橋伝説からきている。
米岡の姥石
境北米岡に「姥石」または「甘酒婆さん」と呼ばれる、高さ1mほどの石が祀られている。昔、鎌倉の北条氏を討つために出陣した新田義貞の軍勢が利根川を渡る前にこの地で休憩をとった。そこに、一人のお婆さんが現れて軍勢に甘酒をふるまったが、武将の馬に誤って蹴られ、死んでしまった。「まことに申し訳ないことをした。」と将兵らは、お婆さんをこの地に手厚く葬ったところ、その遺体はいつの間にか石になってしまった。石の裏側には馬の蹄くらいの丸いくぼみがあり、お婆さんが馬に蹴られた時の傷跡だと伝えられている。後に、この姥石は「甘酒婆さん」と呼ばれて、子どもの百日咳を治してくれる仏様として拝まれるようになった。4月15日の甘酒婆さんの縁日には、信仰者によって新しい塔婆が立てられて供養されている。